2002年10月28日(月)午後8時半。このときを境に、私たち家族の人生は一変しました。長男・直樹(当時22歳)が交通事犯に遭遇し、生命を奪われたのです。
あえて「交通事犯」と書くのは、事故=避けることが困難であった過失、とは思えない状況が判明したからです。少なくとも、事故から5年7ヶ月を経た民事裁判第二審判決の時点まで、一切の謝罪をせず、事故の原因についても口をつぐんでいる加害者には、故意(殺人)の可能性すら否定することはできないと言わざるを得ません。
遺族である私たちはもちろん、残念ながら交通事犯を軽く扱う傾向にある警察・検察・裁判所ですら首を傾げるしかない供述を頑なに続ける加害者のおかげで、私たちは大切な息子を失った悲しみに涙を流すいとまもなく、目撃者捜し、署名活動、副検事交代の上申、検察への本来必要のないアプローチ、おかしな事故鑑定、刑事裁判官の事実誤認、共に闘った弁護士の突然の死 と運命の闇に翻弄されることになるのです。
事故の真実を解明するために、仕事を辞めて全ての時間を事故に関することに費やしてきました。その中で、インターネット関連の占める割合はかなり大きなものです。DTP関連のデータ編集を専門としてきましたが、メールを含めインターネットへの興味はそれほどありませんでした。しかし、私たちの恩人ともいえる故松本弁護士に「助けてください」というメールを送信したことを契機に、TAV交通死被害者の会にめぐり合い、事故から半年で会のホームページと会報「TAV NEWS」の作成を引き受けることになりました。このことが、交通事犯処理システムの問題などの知識・情報を蓄える大きな背景となったのです。
さらに、事故から一年もたたない時期に、ホームページ「かわい荘」を起ち上げました。そのころには、全国のたくさんの交通事犯遺族の方からの相談を受けるようになっており、ホームページを作る術のない方が声を上げるスペースを提供したいという思いからでした。「かわい荘」への入居はほとんどありませんでしたが、全国の交通事犯の被害者遺族から相談を受けることが多くなりました。
「かわい荘」の需要があまりなかったのは喜ばしいことですが、ほとんど知識がなくても簡単にブログなどが起ち上げられるようになり、交通事犯による多くの悲しみがネット上で伝えられています。民事裁判第二審の判決を契機に、私も直樹の思い出のページを作ろうと考えていましたが、止まっては呼吸ができなくなる「マグロ症候群」の私には、直樹と共に交通死ゼロの達成を目指すホームページを作ることが背負うべき荷物だと考えた結果、このサイトを作成することにしました。
民事裁判第二審の判決に向けてこのサイトの構築を進めていましたが、控訴はホフマン主張の「捨て石」という趣旨が強く、過失割合が動くことはあまり期待していませんでした。
しかし、結果は息子直樹の過失は「ゼロ」という判決をいただき、「当然」とはいえ、車両同士の交通裁判で「過失ゼロ」を勝ち取ることの難しさは承知していますから、大阪高裁の裁判官に加害者の異常な行動と事故後の対応を理解していただいたことに感謝しています。
また、署名をいただいた多くの方々、目撃者捜しを手伝っていただいた方々、長い裁判をずっと傍聴して支援していただいた方々、いまは亡き松本弁護士、控訴審からご無理をお願いした中西弁護士、バイクの保管をはじめ数え切れないほどお世話になった川西スズキの皆さん、他 多くの方々のご助力なくしてこの判決を得ることはできなかったと、深く深く感謝の意を表します。
「悲しみをなくすために」という表題は、10日ほど前に南あわじ警察署の交通安全推進行事に呼ばれて講演をしたときに、担当の方から「講演の表題は?」と聞かれて、その場で思いついたものです。実は、最初は「悲しみを減らすために」としたのです。常に交通死ゼロを目指して活動している私であっても、無意識に「減らすために」という文言が出たということは、いかに「交通死ゼロ」達成が困難なものであるかということかもしれません。しかし、私たちはもちろん、交通事犯処理に関わる人たち、自動車メーカーの人たち、教育現場の人たち、そして、ハンドルを握る「あなた」。一人ひとりが「一つの悲しみをも生み出してはいけない」と認識したとき、必ずそれは達成されると信じています。
もう一つ、このサイトの目的として、直樹の生命を奪った加害者への呼びかけがあります。私たちは事故直後から、加害者である奥野美歌(当時21歳)を理不尽に責めたことはありません。最初は、加害者も大変だと思い、思い遣る気持ちを忘れたことはありませんでした。警察で話を聞き、息子の赤信号無視どころか、右直事故であるにもかかわらず正面衝突のような衝突痕を見、警察官の「まったく反省の色がないのです」という言葉を聞き、さすがに「何?」とは思いましたが、それでも冷静に接してきました。
私たちから事故の疑問を投げかけてからは加害者側からの音信は途絶え、私たちも刑事裁判での減刑対策に利用されることを危惧して接触を避けましたが、検察に呼び出された直後に海外に留学したと知らされたときには絶句しました。しかし、あくまでも検察官を通じての行動に徹してきました。
刑事裁判の被告人&情状証人尋問で、父娘で揃って事実と全く違ったこと(事故後の見舞いに関して)を述べたときには、さすがに怒りは抑えきれず、公判終了後に「偽証罪で訴えてやる!」と怒鳴ってしまいました。これくらいは仕方がないでしょう。
加害者の海外留学が原因で副検事交代がテレビで報道され、実名が流されたために「2ちゃんねる」でお祭りになり、そこでは、私が2004年2月14日(バレンタインデー)の刑事公判で被告人に向かって私が怒鳴ったと書かれましたが、私としては淡々と「私の息子にもチョコレートくらい供えてやってや」と言った記憶です。まあ、怒鳴るよりも不気味であったかもしれませんが。なぜこんなことを言ったかというと、公判開始前に駅近くのコーヒーショップで、弁護団にニコニコとチョコレートを配っている被告人を見てしまったからなのです。
加害者に対してのことを書くと際限がありませんが、刑事公判中も終始、検事には「被告人が本当のことを言ってくれたら減刑嘆願書を書きます」と伝えていたのは事実です。検事の返答は「あの被告人にその可能性はないでしょう」ということでしたが、刑事裁判終了後もその頑なな姿勢を変えず、民事裁判では、さらに「嘘」と言わざるを得ない証言を追加したことは、私たちの、人間というものへの信頼の範囲を大きく超えているとはいえ、生涯、加害者を憎み続けることほど苦しいことはないのです。私たちを押し潰そうとしている最も大きな荷物は「加害者を憎む気持ち」であり、刑事裁判で裁判官が最後に諭した「贖罪は一生ですよ」の、ほんの一部でもいいから、実行してくれることを望んでいるのです。
このように加害者を「責める」のであれば、いつまでも謝罪ができないだろうという声も聞こえてくるのでしょうが、私たちが「責める」のは当然でしょう。それでも、加害者から頭を下げにやってくるのが当然です。森本直樹という一人の夢あふれる人間の生命を奪い、その周囲の人間の人生にとんでもなく大きな負荷をかけた責任を考えれば当然なのです。
ともすれば、「おかしい!」と叫びたくなる気持ちを制御して、「悲しみをなくすために」私の知識と情報を役立てることができるページを目指してまいりますので、皆さまのお力をお貸しください。
2008年6月6日
2010年度をもってTAV交通死被害者の会を退会いたしました。
会にご迷惑をかける心配がなくなりましたので、加害者の名前を明記することにしました。丸9年を過ぎた今も加害者奥野美歌からは何らの連絡もありません。
2011年命日